本当はアレなんだ日記

個人ブログです。ツイッター、フェイスブックで言うにはちょっとアレかな~みたいなこと。

近づいてみれば、誰一人まともな奴なんていない

イタリアの精神病院撤廃のスローガンだという。すごくかっこいいと思う。

撤廃というのはもちろん「精神病の奴は出ていけ!」ということではなく、隔離せず地域で共生していくべきだということだ。

みんなが狂気を持っているというのは、THE BACK HORNの「世界樹の下で」のPVを見て感じた事でもある。

他のメンバーが無表情で突っ立っている中、一人だけ狂ったように歌ったり、演奏したりするという映像だ。

世の中、みんな平然な顔で歩いているけど、心の中では歌い叫んでいるのかもしれない。

成長の実感

田舎から都会に出て来たときは、見るものすべてが刺激的で、毎日どんどん新しいことを吸収していった。

18歳から20代の前半まで、おそらく大学院で留学していたころまでは、毎日何かしら成長を実感できていたと思う。今日は新しいことを覚えた、新しい人と出会った、新しい場所に行った・・・

それが、社会人になってから実感できなくなってきたことに気がついた。もちろん、仕事をするなかで新しいことを覚え、人と出会い、行ったことのない場所にも行くのだが、インプットというよりはアウトプット、大学院までの経験を総動員して問題を処理している感じだ。

それは大学院までの教育システムとしては大成功、なのかもしれないが、一方で成長が止まってしまったような、寂しさや焦りを感じていた。

展覧会に行ってみても、映画を見てみても、何か今までに見たもののバリエーションのひとつという感じで、いま俺は成長しているぞ!という実感がない。

 

そんなとき、唯一、自分の成長が及んでいない分野を見つけた。

それは「家事」である。

これまで本当に料理もほとんどしてこなかったから、少し工夫できたというだけで、何かを成し遂げた気分になるのだ。

休日に予定がない、と嘆く必要ももうない。休日は家にいて、家事の技術をどんどん磨けばいいのだ。

知らないということ

今日、髪を切りに行ったのだが、そこでの美容師さんとの会話。

ソフトバンクのCMのお母さん役の人いるじゃないですか。樋口可南子さん。旦那さんも、糸井なんとかさんって・・・有名な人らしいですけど」

糸井重里を知らない人がいるんだな、と思った。

でもその感じがなんとなく良かった。僕らはいつも「当然のように知っている」ことを求められる世界に生きていて、何かを知らないことに対して劣等感を持つようになってしまっている。

まあ知っておいたほうが生きていくために便利な情報というのも多々あるだろうけど、有名人の名前、それ自体は別に知らなくてもいいことなのかもしれない。

かくいう自分も、「糸井重里の奥さんって誰だっけ?」といきなり聞かれたら、「えーと・・・女優・・・?」としか答えられなかったと思うのである。

東芝(小ネタ)

最近話題の東芝。何か大変らしいが何が大変なのかはよく知らない。

そういえば、元巨人の高橋尚成東芝出身)がルーキーの頃、「ズームイン朝」で福澤朗が「高橋投手、初めてヒーローインタビューに立ったら『僕のコントロールは、針の穴をとおしばした(通しました)!』と言ってくださいね!」とお願いしていたのをまだ覚えている。

高橋投手は結局そのギャグを言わなかった・・・。(以上)

さみしくなったら名前を呼んで

2年ほど前に書いてみた書評的なもの。何言ってるかよくわからないですね。

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さみしくなったら名前を呼んで」山内マリコ、幻冬舎、2014

地方都市の問題をずっと気にしてきた僕が山内マリコの小説を読むのは、「ここは退屈迎えに来て」につづいて2冊目だ。僕自身、東京に出て優秀な人の多さに悔しい思いをしてきたから、性別は違えどかなり共感して読んだ。「ここは退屈~」では、各短編に共通して登場する椎名という男の存在があったが、僕個人の中には椎名的な存在のひとは思いあたらないので、そこだけはあまり共感できなかった。その分、椎名を中心にした物語ではない今作のほうが共感度合いは高かったように思う。(一編、ちらっと椎名が出てくるが。)

今作で各短編に共通するのは「自分以外の何者かになりたい」という主人公たちの意志だ。彼女たちの試みはたいてい、なんとなく達成されかけて、でも十分ではない。そして、後半の短編にいくにしたがって、あこがれの存在になれない自分はどうしたらいいか、ということに対しての作者の意見が現れてくるように感じた。

その意見は最後に収録された「遊びの時間はすぐ終わる」に集約されている。地元になんとなく違和感を感じて東京に出た主人公は、地元の小さい世界で地味だが幸せに生きることを選んだ親友に久しぶりに会う。主人公自身、なにものかになりたいと思って上京したものの、具体的なイメージはなく、結局はなにものにもなれないのだということを知っている。地方の子どもにとって、「将来なりたいもの」なんてはじめからあまりないし、実現するとも思っていない。誰もがいずれ、地元で普通の主婦になることをなんとなく知っている・・・「実際のところ、それ一択だったのかもしれない」。それは事実であり、ではそうなった人たちの幸せを批判できるかといえば、(これは僕自身思うことだが)地元に帰ってみるとなんにも否定できないと思うのである。

その最後の1ページはこう締めくくられている。

「とにかくもうちょっと、時間が必要なのだ。自分にはなにが出来て、なにが向いていて、なにをするために生まれてきたのかを、ひと通り試してみる時間が。そういう試みは、もう若くはないと思えるようになるまで、つづけなくちゃいけない。へとへとに疲れて、飽き飽きして、自分の中の無尽蔵に思えたエネルギーが、実はただ若かっただけってことに気がつくまで、やってみなくちゃいけない。身の丈を知り、何度も何度も不安な夜をくぐり抜け、もうなにもしたくないと、心の底から思えるようになるまで。」

それは、ちょっと遠いイオンに行って、心をときめかせながら、結局何も買わずに帰ってきた主人公の遠い思い出に重なる。東京に出ても、何も得られないかもしれない。でも、その心をときめかす「遊びの時間」を疲れるほど満喫しなければ、きっともやもやが残るのだろう。

僕自身は、この数年間でその試みをいろいろやってはみたと思う。少し疲れたくらいだ。まだまだ若いと思うけど、確実に年はとってきている。遊びの時間はすぐ終わる――だからこそ、もう少しつづけていかないといけないのだと思う。

この他にも、「さよちゃんはブスなんかじゃないよ」「大人になる方法」「孤高のギャル 小松さん」あたりはタイトルだけでも目を引くが、内容も面白かった。

一番面白くないギャグ

最近、youtubeで過去の「トリビアの種」を見るのにはまっています。

「面白いギャグ」のほうはリアルタイムで見た記憶があるけど、こっちは初めて見た。

まじで面白くなかったし、寒気すら感じた。ギャグは奥が深い・・・。

www.youtube.com

ハロウィンについて思ったこと

今年のハロウィンはなんかすごかったらしい。渋谷で若者がバカ騒ぎをしてたとかなんとか・・・。

 
ハロウィンから一夜明けた今日も、「昨日のハロウィンすごかったね」「昔はこんなじゃなかったのに」「年々激しくなってる気がする」と、ハロウィンともゲリラ豪雨ともつかないような評判がちらほら聞こえてきた。
 
僕の周りでは、若者とは言えさすがに落ち着く年齢になってきたからか(はたまたリア充がいないのか)実際に仮装して騒いだような人はおらず、急に勢力を伸ばした奇習に眉をひそめたり、社会学的に論じてみたり、という感じだった。
 
宗教性はすっかり忘れられて商業主義に乗せられて楽しむ、というのはクリスマスをはじめとして日本ではよくあることだが、実際にここ20年くらいでひとつの風習が徐々に定着する様子をリアルタイムで見ると、なんだか不思議な感じを覚える。
 
それで、もういっそのことイスラムのお祭りもマーケティングとか戦略的にやったら定着するんじゃないか、というかイスラム国に参加したいとか言う前にそういうことに精を出せよ、とかぼんやり考えていて思ったのだが、
 
もしかしたらイスラム国に参加しようとした大学生と、渋谷のハロウィンの若者は本質的には同じなんじゃないか。宗教性ではなく「楽しいから/戦闘がしたいから」やるという。しかし方向性は真逆で、リア充的な騒ぎとして表現されるか、引きこもり的・個人的な奇行として表現されるか、両極端なのではないか。
 
・・・まあイスラム国の事件に結びつけるのは半分空想だとしても、「若者」が二極化しているというのは感じる。こういうことがあるとよく、「若者が~」というけれど、一概にはくくれない。「若者は海外旅行に行きたがらない」とか少なくとも僕の周りではあり得ない。みんな海外志向だ。
 
コミュ力が高くて起業とかしちゃうタイプと、引きこもりで犯罪者予備軍的になってしまうタイプの、両極がある。「若者」の代表みたいにカリスマを気取ってる人たちがいて、選挙に出る人もいるが、彼らの考える「若者」は「サッカーの試合があったらスポーツバーで盛り上がれる若者」であり、そういう若者を救うことしかできないんじゃないかと思う。救うべきは、片田舎で仕事がなく、暗く引きこもってるような「若者」なのだと思う。
 
ハロウィンから妄想がいろいろ展開してしまった。無責任な戯言でした。