本当はアレなんだ日記

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さみしくなったら名前を呼んで

2年ほど前に書いてみた書評的なもの。何言ってるかよくわからないですね。

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さみしくなったら名前を呼んで」山内マリコ、幻冬舎、2014

地方都市の問題をずっと気にしてきた僕が山内マリコの小説を読むのは、「ここは退屈迎えに来て」につづいて2冊目だ。僕自身、東京に出て優秀な人の多さに悔しい思いをしてきたから、性別は違えどかなり共感して読んだ。「ここは退屈~」では、各短編に共通して登場する椎名という男の存在があったが、僕個人の中には椎名的な存在のひとは思いあたらないので、そこだけはあまり共感できなかった。その分、椎名を中心にした物語ではない今作のほうが共感度合いは高かったように思う。(一編、ちらっと椎名が出てくるが。)

今作で各短編に共通するのは「自分以外の何者かになりたい」という主人公たちの意志だ。彼女たちの試みはたいてい、なんとなく達成されかけて、でも十分ではない。そして、後半の短編にいくにしたがって、あこがれの存在になれない自分はどうしたらいいか、ということに対しての作者の意見が現れてくるように感じた。

その意見は最後に収録された「遊びの時間はすぐ終わる」に集約されている。地元になんとなく違和感を感じて東京に出た主人公は、地元の小さい世界で地味だが幸せに生きることを選んだ親友に久しぶりに会う。主人公自身、なにものかになりたいと思って上京したものの、具体的なイメージはなく、結局はなにものにもなれないのだということを知っている。地方の子どもにとって、「将来なりたいもの」なんてはじめからあまりないし、実現するとも思っていない。誰もがいずれ、地元で普通の主婦になることをなんとなく知っている・・・「実際のところ、それ一択だったのかもしれない」。それは事実であり、ではそうなった人たちの幸せを批判できるかといえば、(これは僕自身思うことだが)地元に帰ってみるとなんにも否定できないと思うのである。

その最後の1ページはこう締めくくられている。

「とにかくもうちょっと、時間が必要なのだ。自分にはなにが出来て、なにが向いていて、なにをするために生まれてきたのかを、ひと通り試してみる時間が。そういう試みは、もう若くはないと思えるようになるまで、つづけなくちゃいけない。へとへとに疲れて、飽き飽きして、自分の中の無尽蔵に思えたエネルギーが、実はただ若かっただけってことに気がつくまで、やってみなくちゃいけない。身の丈を知り、何度も何度も不安な夜をくぐり抜け、もうなにもしたくないと、心の底から思えるようになるまで。」

それは、ちょっと遠いイオンに行って、心をときめかせながら、結局何も買わずに帰ってきた主人公の遠い思い出に重なる。東京に出ても、何も得られないかもしれない。でも、その心をときめかす「遊びの時間」を疲れるほど満喫しなければ、きっともやもやが残るのだろう。

僕自身は、この数年間でその試みをいろいろやってはみたと思う。少し疲れたくらいだ。まだまだ若いと思うけど、確実に年はとってきている。遊びの時間はすぐ終わる――だからこそ、もう少しつづけていかないといけないのだと思う。

この他にも、「さよちゃんはブスなんかじゃないよ」「大人になる方法」「孤高のギャル 小松さん」あたりはタイトルだけでも目を引くが、内容も面白かった。