本当はアレなんだ日記

個人ブログです。ツイッター、フェイスブックで言うにはちょっとアレかな~みたいなこと。

すべての建築は仮設である

建築家は、もう仮設しかつくれないんじゃないかな。

藤本壮介のフランスのパビリオンを見てそう思った。

仮設だから何でもできる。芸術家としての建築家は、仮設しかできないのかもしれない。

というか、すべての建築は長期的に見たら「仮設」だと思う。少なくとも日本においては。
新築の建築には、いつまで使うのか、という視点が欠けている。
どう朽ちるのか?50年後も、同じようにそこにあるのか?
百年残るのか、千年残るのか、いずれにせよいつかは壊すことを考えているのか、それとも永久に残すつもりでつくっているのか。

例えば50年で壊す前提で設計したらどうだろうか。そうすれば、どう記憶を残すか、というプログラムをはじめから組み込むことができる。
新国立競技場にしても、ザハ案にしろ、今の競技場にしろ、壊すなんて考えてつくっていないのではないか。だから問題がおこる。
新しい方法論が求められている。ザハが新しくないのは、その方法が表面的にしか、見た目だけしか新しくないからだ。そういう意味で、この前のティンバライズ展のように「壊される前提でその先を考える」ということにはすごく可能性がある。

うちも、実家を新築しようという話がある。老いつつある両親のための家になる。数十年後に自分が実家に戻るかどうか、その家を受け継ぐかどうかは、わからない。親は住宅メーカーの普通の家でいいと言っているが、自分はせっかくだから従来型のメーカー住宅を建てるのではなくて、何か新しいことができないかと思っている。だから、その家はそういう意味での「仮設住宅」にしたい。建てても、数十年というサイクルでいつかは壊すもの。壊すときに、継承できるもの、写真に残すもの、リサイクルするもの・・・そういうことをあらかじめ組み込むような(それが本当に実現されなくても、あるいは意図とは違った形で実現されてもいい)、そこまで含めての新築計画ができればと思っている。